第10部 生涯にわたる巡教(4) 岡本雅享

生涯最後の巡講地高知へ/「人間は働くべく生まれたもの」

出雲大社土佐分祠に残る『大社教土佐分院来歴記』の表紙(左)と、その巻頭に戴く尊福の揮毫(右)
 大正3(1914)年夏、約50日にわたる福岡巡講を終えた尊福は、秋から冬にかけ山口や京都・兵庫も計50日ほど巡った。4年には岡山、愛媛、山形県などへ計4回・約115日間、5年には大分、茨城、徳島などへ計6回、約135日間と、年々巡講の頻度と日数が増えている。3年に古希を迎え尊福は、今西憲が「常人では考えられない」と驚くほど精力的に、列島を駆け巡っていたのだ。

 6年も春から秋にかけ愛知、滋賀、石川へと体を休める間もなく巡教し、11月下旬に最後となる高知へ向かう。20日に大教正の竹崎嘉通と共に夜行列車で東京を出て岡山へ、大阪駅で家従の立花増美と合流後、汽船で高松へ渡り、琴平を経て昼間教会所のある阿波国三好郡(徳島県)へ入った。高知市に着いたのは24日である。

 土佐といえば、長岡郡本山の志和九朗左衛門が流した願開舟(小さな木製模型)が天明3=1783年、出雲に漂着した逸話で有名だ。それを機に大社の社家矢田八種が来国し、幅広く布教を行い、明治以前から出雲信仰が根付いていた。戦後、土佐分祠に昇格した高知教会所は明治9(1876)年に開教し、大社の社家、平岡可美が初代教会長を務めた。数多ある大社教会の中でも尊福と縁の深い教会の一つである。今も分祠に残る『大社教土佐分院来歴記』は、第5代教会長の早田満郷が尊福の高知県下巡教に合わせ、尊福に見てもらうべく大正6年9月18日に始めた記録で、巻頭には6年11月、尊福が訪れた時に記した題字がある。

 『風調』83号掲載の「高知県巡講日誌」には、大社教高知分院で開講した翌25日「新聞社員、来訪多し」とあり、尊福の談話が載っている。全国を26県くらい巡ってきた目的は、第一に教育や産業、風俗や人情を自分の目でよく視ることだと、尊福は切り出す。視察といえば、大概の人が都会を表面的に見て、自分の言いたいことだけ話して帰るが、自分は「地方へ行かねば承知ができない」「田舎へ行って地方の真相を見、百姓とも親しく談じてみたい」と、社会への強い関心を示し続けた。

 政治については山県、伊藤、西園寺、桂内閣の下で知事や大臣を務めた経験を振り返り「近頃は揚足取りが多い」「議論倒れはイヤだ」と嘆き、記者たちに土佐の政党界の事、教育問題、土阿交通問題、鉄道問題などを、逆に尋ねる。話が宗教に及ぶと、信仰は各自の自由だから強いるべきではないが「神職、牧師、僧侶が互いに排斥し合うなど、もってのほか」と語り、「昔は道を説くのに、信者が気に入るまいが、信ずる所を述べたが、近頃の宗教家は信者・檀家の気に入る様、その意に仰合せんとしており、それが気に入らぬ」と力説。記者は「尊ぶべき人格の権化」と感嘆した。

 この時、記者は「矍鑠(かくしゃく)たる身体を儼然(げんぜん)たる羽織袴に包み、桜色の童顔で白髯鬖鬖(さんさん)と垂れた男は、旅館奥座敷に記者を迎へて慇懃(いんぎん)に語る」と尊福の健在ぶりも伝えている。尊福も「人間は働くべく生まれたもので、死ぬまで何かしているべき」だと自分は思っているから「隠居は大嫌い」と語った。来がけに寒くて少し風邪をひいたが「旅行していると具合がいい」ので「身体はこの通り至極健康」と語る尊福に、場も和んだだろう。その尊福が1月後に薨去(こうきょ)するなど、誰一人思いもよらなかったはずだ。

(福岡県立大准教授)

=(5)は29日に掲載=

■八雲の空―岡本雅享の出雲学≪千家尊福国造伝≫へ

2018年12月26日 無断転載禁止