長州軍の進軍止めた関門頭 岸 静江(浜田市ゆかり)

身を盾に農民と部下守る

ミュージカル「群青」で、岸静江の奮闘を再現したシーン
 江(え)戸(ど)時代後期(幕(ばく)末(まつ))、現(げん)在(ざい)の山口県を治めた長(ちょう)州(しゅう)藩(はん)は幕府を倒(たお)そうと企(くわだ)てました。幕府は、反(はん)乱(らん)を鎮(しず)めようと2度にわたり出(しゅっ)兵(ぺい)しました(長州征(せい)伐(ばつ))。1866(慶応(けいおう)2)年6月、2度目の出兵で、長州藩は京都へ兵を進めようと島根県西部に攻(せ)め入りました(石(せき)州(しゅう)口(ぐち)の戦い)。

 徳(とく)川(がわ)家の血(ち)筋(すじ)を引く松(まつ)平(だいら)右(う)近(こん)将(しょう)監(げん)家(け)が治める浜(はま)田(だ)藩は幕府の命令に従(したが)い、長州軍の進軍を止めようと守りを固めました。

 浜田藩は津(つ)和(わ)野(の)藩との境(きょう)界(かい)がある多(た)田(だ)村(むら)扇(おうぎ)原(はら)(現在の益(ます)田(だ)市多田町)に関門を置きました。関門の頭(かしら)が当時、31歳(さい)の岸(きし)静(しず)江(え)でした。6月15日夜、長州軍は数百もの軍(ぐん)勢(ぜい)で関門に近づきます。「城(じょう)下(か)は通らない」と、関門を通すよう求める長州軍に、岸は「勝手に門を開くことができない」と拒(きょ)否(ひ)しました。

 この間、岸は浜田藩に伝令を走らせます。関門を守るのは部下の武(ぶ)士(し)5人に、周辺の農村から集めた臨(りん)時(じ)の農民兵16人。戦いが始まり、双(そう)方(ほう)の銃(じゅう)撃(げき)戦(せん)となりました。

 圧倒的(あっとうてき)な人数の差から浜田藩側が厳(きび)しい状(じょう)態(たい)に追い込(こ)まれると、岸は農民兵と部下たちに退(たい)去(きょ)するよう促(うなが)します。長いやりを持ち、関門に一人残った岸は長州軍に胸(むな)腹(ばら)付近を撃(う)たれました。

 しかし、すぐには倒れませんでした。長州兵が慎(しん)重(ちょう)に近づくと、岸は正面をにらんだまま倒れていたと伝えられています。

岸静江の功績を今に伝える石碑が立つ扇原関門跡=益田市多田町
 長州軍は、敵(てき)ながらその勇ましさをたたえ、村人たちに亡(な)きがらを手(て)厚(あつ)く葬(ほうむ)るように指(し)示(じ)。関門の跡(あと)と岸の墓(はか)は益田市指定史(し)跡(せき)として、地元の多田自治会が大切に管理しています。

 多田自治会の池(いけ)田(だ)由(ゆ)岐(き)夫(お)会長(67)は「農民を救(すく)ってくれたことは今もみんなが感(かん)謝(しゃ)している」といい、自治会の人たちは年5回の墓掃(そう)除(じ)を欠かさないといいます。地(ち)域(いき)の宝(たから)物(もの)として岸の脇(わき)差(ざ)し(小刀)と火(ひ)縄(なわ)銃(じゅう)も保(ほ)管(かん)してあるといいます。

 今年10月に浜田市内で上(じょう)演(えん)された市民参加ミュージカル「群(ぐん)青(じょう)」でも、岸の戦いぶりを演(えん)技(ぎ)で再(さい)現(げん)しました。

 長州軍に迫(せま)られた浜田藩の最後は、城(しろ)の一部を燃(も)やして殿(との)様(さま)が逃(に)げたことで有名ですが、藩士の中には岸のように志(こころざし)を持った武士がいたのも史実です。(鎌(かま)田(だ)剛(つよし))

2019年11月20日 無断転載禁止

こども新聞