出雲大社「出雲教」の基礎を築いた 北島 全孝(出雲市生まれ)

国こく造そうや学者として研さん

 北島(きたじま)全孝(たけのり)(1803~86年)は、出(いず)雲(も)大社(たいしゃ)(出雲市大社町杵(き)築(づき)東(ひがし))の祭祀(さいし)を司(つかさど)る出雲国造(こくそう)の子として北島家で生まれ、第75世出雲国造を勤(つと)めました。退任(たいにん)後は、出雲大社崇敬(すうけい)講社(こうしゃ)を組(そ)織(しき)し、現在(げんざい)の出雲教の基(き)礎(そ)を築(きず)きます。北島家は現在が第80世で、神代(かみよ)の昔から続く歴史があるといいます。

 出雲大社の国造家は、古来から出雲姓(せい)を名乗っていました。南(なん)北(ぼく)朝(ちょう)時代の1343(南朝=興国(こうこく)4、北朝=康永(こうえい)2)年、兄弟が千(せん)家(げ)家と北島家に分かれてからも、両家が同格(どうかく)の扱(あつか)いを受けて月交代で御杖代(みつえしろ)(=神や天皇(てんのう)の杖代わりとなる人)として奉仕(ほうし)します。

 全孝は1838(天保(てんぽう)9)年に国造を受け継(つ)ぎ、72(明治5)年まで34年間、出雲大社のリーダーとなりました。国造を退任後も出雲大社への崇敬の念を忘(わす)れることなく、高潔(こうけつ)な人柄(ひとがら)で多くの人の尊敬(そんけい)を集め、出雲大社崇敬講社を結成。以(い)降(こう)、組織を強化し、北島家の出雲教と千家家の大社教(現在の出雲大社教)に発展(はってん)していきます。

 全孝は幼(おさな)くして学問を好み、日本古来の文化や思想などを研究する国学(こくがく)や、明治維(い)新(しん)の原動力となった尊皇(そんのう)思想の水(み)戸(と)学(がく)を修(おさ)めます。

 和歌、俳(はい)句(く)や絵画にも興(きょう)味(み)を持ち、絵筆を運びました。書にも関心を抱(いだ)き、軸装(じくそう)、短(たん)冊(ざく)など多数が今に伝わっています。学者としても文人としても、自らを高めていきました。

 しかし、国造になってからは、ある理由により絵を描(か)くことは止めたと伝えられます。

 出雲教は、出雲大社に向かって右側の北島国造館(こくそうかん)に総(そう)本(ほん)院(いん)を置き、全国各地に分院や教会などを設(もう)けて布(ふ)教(きょう)活動をしています。境内(けいだい)は広く、出雲大社側の正門(四脚門(よつあしもん))は出雲大社の門の中で最古の建造物です。神殿(しんでん)、邸内社(ていないしゃ)や心洗(あら)われる滝(たき)などもあります。

 現在の宮(ぐう)司(じ)については、1872(明治5)年に政(せい)府(ふ)が「各神社の宮司は一人なるべし」という一(いっ)般(ぱん)神社制(せい)度(ど)の改正を行って以降、出雲大社は千家家だけが務めています。

 同年の火事で北島家が屋(や)敷(しき)のほとんどを消失したこともその理由のひとつといわれています。

 国造はもともと国の制度で豪族(ごうぞく)の中で有力者が務めた地方官ですが、大(たい)化(か)の改新(かいしん)以降は主に祭祀を行う世(せ)襲(しゅう)制の名(めい)誉(よ)職(しょく)になりました。

2019年12月18日 無断転載禁止

こども新聞