ローマ五輪棒高跳びに出場 安田 矩明(米子市ゆかり)

85回優勝し陸上界けん引

 米(よな)子(ご)市ゆかりの安(やす)田(だ)矩(のり)明(あき)(1935~2004年)は、男子棒(ぼう)高(たか)跳(と)びでローマオリンピックに出場したほか、現役(げんえき)選手として試合に145回出たうちで85回優(ゆう)勝(しょう)するという高い勝(しょう)率(りつ)を誇(ほこ)りました。その後は、中(ちゅう)京(きょう)大学(本部・名(な)古(ご)屋(や)市)体育学部教(きょう)授(じゅ)・陸上競(きょう)技(ぎ)部長として、日本の陸上界をけん引しました。

 矩明は、日本が統(とう)治(ち)していた台湾(たいわん)で国民学校校長の家庭に生まれます。スポーツ好きの一家で、小学校に入る前から自然と鉄棒や跳び箱に親しみました。

 1946(昭和21)年、台湾から引き揚(あ)げ、小学校5年の時に一家の古里(ふるさと)である現(げん)在(ざい)の米子市大(おお)篠(しの)津(づ)町に移(うつ)ります。小中学校でさまざまなスポーツに明け暮(く)れ、特に体(たい)操(そう)競技に熱中。体操選手になることを夢(ゆめ)見ていました。

 51(昭和26)年、鳥取県立境(さかい)高校に進学し、2年生の時に棒高跳びに出合います。いきなり3メートルを跳び、当時の県高校記録の3メートル20センチに迫(せま)ります。体操部から陸上部へ転部し本格的(ほんかくてき)に陸上を始め、監督(かんとく)が「練習の虫だった」と語るほど、熱心に練習しました。

 3年生の時に、県大会と中国大会をともに3メートル30センチの県高校新記録で優勝します。さらに自身の持つ県高校記録を更新(こうしん)する3メートル60センチをマークしました。

 旭(あさひ)化(か)成(せい)(本社・東京)に就(しゅう)職(しょく)し、陸上部に所(しょ)属(ぞく)します。しかし、好きな運動と体育の勉強ができるという理由で56(昭和31)年、東京教育大学(現在の筑(つく)波(ば)大学=茨(いばら)城(き)県つくば市)に進学。2年生の時に日本選(せん)手(しゅ)権(けん)を4メートル10センチで制(せい)します。翌(よく)年の第3回アジア競技大会(東京)では4メートル20センチを跳んで金メダルを獲得(かくとく)。この年、21年ぶりに4メートル36センチの日本記録を樹(じゅ)立(りつ)しました。

 大学を卒業した60(昭和35)年、東海陸上競技選手権で五輪参加標(ひょう)準(じゅん)記録の4メートル40センチを跳んでローマオリンピックに出場。4メートル20センチを記録しましたが、予選敗退(はいたい)しました。2年後には日本記録をさらに4メートル41センチにまで伸ばします。

 70(昭和45)年に中京大学の教員に転身、教授に就(しゅう)任(にん)します。陸上競技部監督や部長を務(つと)め、アテネ五輪ハンマー投げ金メダリストの室(むろ)伏(ふし)広(こう)治(じ)さんらを育てました。 

 2004(平成16)年、肝(かん)臓(ぞう)がんのため、68歳(さい)で亡(な)くなりまし

2020年4月15日 無断転載禁止

こども新聞